雑野さんが感じる新世界の魅力とは?
Q 新世界の街が魅力的なのはなぜ?
地理的な部分と、街に来る人の多様性もあるのかなと。
地理的にも、新世界は、悪い意味でもなくちょうど、道路で隔離されている。
〇〇自治区ではないですが 笑。
そこだけ、別のエリアになって独自の発展をしてきた。
それに、うちのお店の近くにも新世界花月があって芸人さんが一番最初に踏む舞台があったりと芸人さんもたくさんいたり、舞台が花形であったり、映画館があったりいろんな人がいろんな形で商売してきた多様さも特徴的ですね。
Q 新世界が他の街と違う魅力と言えば?
やっぱり他の繁華街と違うところは、新世界は地の人というか、住んで商売をしている関係もあるのか、昭和の匂いを残しながら、そんなにかしこまって、普段着のまま来れるような商業地なのかなと。
ミナミやキタって、ちょっと構えて服も整えてという感じがあるが、
割と普段着で、フランクに来れるのが街自体にそういう雰囲気がある。
100年以上の歴史の中で街自体が持っている雰囲気がある。
そういうものってそんなすぐに醸し出せるものではないので、何十年とか百年とかの歴史の中で、街自体が作り出してきた雰囲気だと思います。
そういうものが一つの魅力に繋がってるのかな。
昭和レトロという言われ方をしますが、マイナーチェンジとかはしてますが、最新の街とは違う街の雰囲気がいまだに残ってます。他の地区の商店街とは違う雰囲気ですよね。
Q 観光地として注目されることについては、どう思いますか?
新世界は、元々、商業地だけど、どっちかというと観光地という側面が強くなっている。
どうしても、通天閣の南のところから、どうしても通天閣バックを取り上げられることが多い。
観光地化して外国人の方もいらっしゃいますし、女の子だけでも、立ち飲み屋に入れるような時代ですが、いまだに、中川家が珍しいおっちゃんとしてテレビで取り上げるような部分もある。
見た目だけで見ても、人種のるつぼのようなところがある。
通天閣 エレベーターガール 雑野さんから見た通天閣の思い出
(雑野さん)
Q おばあさんが、エレベーターガールをされたという話でしたが、どういうきっかけでされることになったのでしょうか?
うちのおじいさんからすると、息子の交際相手だしというのがきっかけだったそうです。
Q エレベーターガールをされたときのどういった気持ちだったのでしょうか?
地元に通天閣のような高い建物ができて、多少、誇りに感じていたし、楽しかったそうです。それこそ、来塔者はかなりすごい人数だった。
当時、円形エレベーターも初めてだったので、そういう意味でも注目されていた。
どこにでもあるような塔ではなくて、初めて尽くしのような塔で働くのも嬉しかったみたいですね。
本人からすると、たまたま、社長の息子と交際していたという話なので、図らずもやり始めたエレベーターガールですが、本当に誇りを持って働いていたそうです。
実際にエレベータガールをされていた雑野さんお母さんご本人にも直接インタビューさせていただきました!
(雑野さんのお母さん)
Q エレベーガールとして働かれている時は、どういう気持ちだったのでしょうか?
通天閣ができて一番最初だったので、張り切っている感じがありました。
最初だから、粗相のないようにという緊張もあったように思います。
新世界の何もないところにできた通天閣だったので、誇りに思っている部分もありました。
Q 当時の通天閣はどのような様子だったんでしょうか?
その当時は、できてすぐだったので、
人が並んで整理をしなきゃいけないくらいでした。
Q おじいさんはどのような方だったのでしょうか?
本当に立派な方やなと思います。
おじいさん達が、通天閣を建ててくれなかったら今の新世界は無いと思います。
普通の人にもかかわらず、通天閣のような大きな建物を建てられたことは本当に凄いと思います。
普通の人が通天閣を建てるような立派なことをする、そら苦労するやろうな。
エレベーターガールが必要ですってことで一番初めの時から働かせてもらいました。
あのおじいちゃんは地域の中でも役所に行くとしても、すごかったです。
顔が聞くと言うのは変な言い方ですが、区役所や警察とかいろんなところに行ったりと、人の世話をあそこまでできる人はいないです。
今、90歳で、25歳から65年間新世界にいますが、あそこまでの方はなかなか見たことないです。
この子(雑野さん)は、おじいちゃんの血を引いてるなと思います。
保護士や民生委員をしているのを見ると、おじいちゃんの血が繋がっているんだなと感じて嬉しくなりますね。
新世界 通天閣の再建秘話 命がけの再建(通天閣の再建無くして、新世界の復興なし)
Q おじいさんが、通天閣を作られたと聞きましたが、当時のことで何故、そこまでして通天閣の復興を目指したのでしょうか?
「思い」としては、
「通天閣の再建無くして、新世界の復興なし」
うちのおじいさんからしたら、初代の通天閣っていうのは直接、見てきた。
新世界のシンボルというよりも大阪のシンボルとして、新世界自体が復興というのは 通天閣の再建なくして新世界の復興はないという思いに駆られていた。
皆さんもそういう思いを持っていたと思って、実際に作ろうという話が地元で上がってきて、昭和28年(1953年)ぐらいに設立準備委員会を立ち上げて発起人代表になって、実際に再建に向かって走り出す。
Q 戦後にそれだけ大きな建物を建てるのは大変だったのでは?
当時タワーの設計は、早稲田大学の教授の内藤多仲という人しかできなかった。
だから、東京までお願いに行ったり、名古屋のテレビ塔を視察に行ったりした。
東京タワー、通天閣、名古屋のテレビ塔のフォルムが似ているのは内藤教授が設計したからなんですよ。
その後、用地の部分を大阪市と話をして今の通天閣の再建が決まった。
周りからは、「そんなもんできへんで。」とか、「そんなもんできたら、うどんで首吊ったるわ」
とか言われるような人も居たそうです。
例えば、東京に頼みに行くとなったとしても、今みたいに、のぞみで2時間半とかじゃなく、1日がかりだったでしょうし。
例えば、東京に通天閣の再建について頼みに行くとなったとしても、今みたいに、のぞみで2時間とかじゃなく、一日がかりだった。
それも何度か足を運んだそうです。
しかも、最初は、「用地として狭すぎる」ということで、断られた。
当然、資金集めも大変だったでしょうし、普通の人には「できっこないだろう」と思われたと思います。
Q お爺さんの通天閣再建について、特にここが凄いな思われている部分はございますか?
肚(はら)の座り方が人として異次元
世代間のギャップもあるんでしょうけども、明治時代の人は、我々の世代と比べると肚(はら)の座り方が違うというか、人間的に、違う異次元のもの持ってるなっていう気はしますね。
明治時代の人は、「命のかけ方」に対して違うものがあると思います。
僕らは、命をかけるといっても漠然としかしません。
でも、当時の人は、実際に戦争も経験してるでしょうし。
肚(はら)の座り方とか実際何か事業をするときの命のかけ方とか、覚悟というものが全然違うかなと思いますよね。
当時の人っていうと、まだ明治維新後ですから、まだ町の中に「ちょんまげ」の人もいたかもわかりませんし、
帯刀してた人もいてたかもわかりませんし。
もっと命に対する感じ方が身近っていうか、命がけの意味が我々の感覚と違う。
もしこれができなければ、長江の人柱になるつもりやと、お爺さんがコメントしているという新聞の記事も読んだことがあるんですが、ほんまにその気やったん違うかなって思いました。
口先だけじゃなくって、「ほんまに命かけるんやで」って感じだと思います。
私のおばあさん、通天閣を再建したお爺さんの奥さんに当たる人に話を聞いたことがありますが、
「血尿を出したよ」っていうのは聞いたことあります。
おじいさんが履いていたステテコが真っ赤になったそうです。
なかなか、本で読んだりとか漫画とかで、血のションベンを出すとかっていうのを聞くことありますけど実際にそういうことあるんやなっていうのは、思いました。
連合会会長を2期(4年間)就任されたみたいです。
その新世界連合会会長の就任時にやってた時期に通天閣の再建の話があった。
お爺さんの時は、昔の通天閣はロープウェイになっていて、それを模して美術館を買い上げてホテルとしてつないでやるだけやったら、市に寄贈するという構想はあったみたいです。
我々とは、発想というか比較できないようなスケールを感じますね。
新世界でのご商売と町おこしについて 雑野店主インタビュー
新世界じゃんじゃん横丁でご商売される雑野店主にインタビュー!
ご商売から、町おこし、通天閣の誕生秘話など盛り沢山のため1記事に収まらず全4回のインタビューになりました!
1, 新世界でのご商売と町おこしについて
2, 新世界 通天閣の再建秘話 命がけの再建(ご家族から見た再建の思い)
3, 通天閣 エレベーターガール おばあさんから見た通天閣の思い出
4, 雑野さんが感じる新世界の魅力とは
本記事では
新世界でのご商売と町おこしについて取材させていただきました!
Q お店はどのようなご商売でしょうか?
お店は用品雑貨のお店です。
昔は、子供もたくさんいた時は、こども服を取り扱っていたり
紳士肌着や、鞄なども取り扱っています。
Q いつから新世界でご商売されていますか?
私は、3代目で祖父の代から商売しているので、戦後すぐに、商売を開始しています。
まだ、新世界に店が全部入っていないような状態からスタートしたとは聞いています。
私が、今年58歳の年で、1965年生まれなので、まだ、生まれてないし、道自体もアスファルトになってない時から、雑野商店は、スタートしています。
当時は、戦後なので、着る物も既製品ではなく、今でいう古着のようなものを取り扱うことが多かったようです。
Q 雑野さんご自身が、本格的に新世界でご商売を始められたのはいつからですか?
2005年ごろだと思います。
40歳くらいの時に、用品雑貨の今の仕事を専業でやるようになりました。
私は、一時期、二足の草鞋(ワラジ)でした。
仕事から帰ってから、店を手伝うような形で、15年くらいやっていました。
二足の草鞋の時は、土日は、商店街で、平日は会社でという形だったのでオフの日はほとんど無いような日が続きました。
勤め先は、狙ったわけでは無いのですが、繊維会社に勤めていました。
当時一番有名だったのは、カールルイスの靴の中に使われていたアラミド繊維なども取り扱っていました。
僕が24歳、結婚した年に親父が亡くなっています。
その期間というのは、その前年におばあちゃんも亡くなって、私の周りに色々変化があってぎゅっと濃縮した年でした。
その後、店一本で専念する形になりました。
当然、父が亡くなった後、地域のいろんな役を引き継いで担当するもありました。
ほとんど、親父の同級生や、その前後の人が多かったんですが、
年齢とは、別に20代からいろんな役職を担当することになったので、
役職歴は結構長いです。
新世界連合振興町会副会長など、街に直接的に関わるものから浪速地区の保護司や恵美地区の民生委員なども担当しています。
Q じゃんじゃん横丁では、町おこしが沢山ありましたが、そのなかで印象に残っているものは?
当時の若手のメンバーで、新世代のメンバーで集まっていたのですが、印象に残っているのは、誓いの鍵や、ジャンナリエですね。
新世代として集まろうという流れで、町おこしに参加するようになりました。
Q その時はどのような気持ちでしたか?
昔は、新世界は、人の波がたくさんあって、まっすぐ歩けないくらい時から比べると、
人がどんどん減っていましたので、なんとかしようと思っていました。
最初は大きな目標ではなく、若い人でできないかという形でした。
誓いの鍵も、どんどん埋まって行くのを見るとそれだけ反響はあったのかなと思いました。
日々、目に見えて、鍵が増えていくのが分かるので、来てくれてつけてくれているなぁって感じでした。
ジャンナリエも派手に見えますが、いきなり初年度からではなく、
一つずつ積み重ねて行ってできたんです。
まずは、写真展をやったり、毎年、少しずつ電飾もバージョンアップしていきました。
3年間くらい続けて、電飾は、冬の12月からバレンタイン前くらいまでは飾り付けは残していました。