新世界 通天閣の再建秘話 命がけの再建(通天閣の再建無くして、新世界の復興なし)

Q おじいさんが、通天閣を作られたと聞きましたが、当時のことで何故、そこまでして通天閣の復興を目指したのでしょうか?

 

「思い」としては、

通天閣の再建無くして、新世界の復興なし」

 

うちのおじいさんからしたら、初代の通天閣っていうのは直接、見てきた。

 

新世界のシンボルというよりも大阪のシンボルとして、新世界自体が復興というのは 通天閣の再建なくして新世界の復興はないという思いに駆られていた。

 

皆さんもそういう思いを持っていたと思って、実際に作ろうという話が地元で上がってきて、昭和28年(1953年)ぐらいに設立準備委員会を立ち上げて発起人代表になって、実際に再建に向かって走り出す。

 

Q 戦後にそれだけ大きな建物を建てるのは大変だったのでは?

 

当時タワーの設計は、早稲田大学の教授の内藤多仲という人しかできなかった。

だから、東京までお願いに行ったり、名古屋のテレビ塔を視察に行ったりした。

東京タワー、通天閣、名古屋のテレビ塔のフォルムが似ているのは内藤教授が設計したからなんですよ。

 

その後、用地の部分を大阪市と話をして今の通天閣の再建が決まった。

 

周りからは、「そんなもんできへんで。」とか、「そんなもんできたら、うどんで首吊ったるわ」

とか言われるような人も居たそうです。

 

例えば、東京に頼みに行くとなったとしても、今みたいに、のぞみで2時間半とかじゃなく、1日がかりだったでしょうし。

 

例えば、東京に通天閣の再建について頼みに行くとなったとしても、今みたいに、のぞみで2時間とかじゃなく、一日がかりだった。

それも何度か足を運んだそうです。

しかも、最初は、「用地として狭すぎる」ということで、断られた。

当然、資金集めも大変だったでしょうし、普通の人には「できっこないだろう」と思われたと思います。

 

Q お爺さんの通天閣再建について、特にここが凄いな思われている部分はございますか?

 

肚(はら)の座り方が人として異次元

 

世代間のギャップもあるんでしょうけども、明治時代の人は、我々の世代と比べると肚(はら)の座り方が違うというか、人間的に、違う異次元のもの持ってるなっていう気はしますね。

 

明治時代の人は、「命のかけ方」に対して違うものがあると思います。

 

僕らは、命をかけるといっても漠然としかしません。

でも、当時の人は、実際に戦争も経験してるでしょうし。

肚(はら)の座り方とか実際何か事業をするときの命のかけ方とか、覚悟というものが全然違うかなと思いますよね。

 

当時の人っていうと、まだ明治維新後ですから、まだ町の中に「ちょんまげ」の人もいたかもわかりませんし、

帯刀してた人もいてたかもわかりませんし。

 

もっと命に対する感じ方が身近っていうか、命がけの意味が我々の感覚と違う。

もしこれができなければ、長江の人柱になるつもりやと、お爺さんがコメントしているという新聞の記事も読んだことがあるんですが、ほんまにその気やったん違うかなって思いました。

 

口先だけじゃなくって、「ほんまに命かけるんやで」って感じだと思います。

 

私のおばあさん、通天閣を再建したお爺さんの奥さんに当たる人に話を聞いたことがありますが、

「血尿を出したよ」っていうのは聞いたことあります。

 

おじいさんが履いていたステテコが真っ赤になったそうです。

 

なかなか、本で読んだりとか漫画とかで、血のションベンを出すとかっていうのを聞くことありますけど実際にそういうことあるんやなっていうのは、思いました。

 

連合会会長を2期(4年間)就任されたみたいです。

その新世界連合会会長の就任時にやってた時期に通天閣の再建の話があった。

 

お爺さんの時は、昔の通天閣はロープウェイになっていて、それを模して美術館を買い上げてホテルとしてつないでやるだけやったら、市に寄贈するという構想はあったみたいです。

我々とは、発想というか比較できないようなスケールを感じますね。