新世界でのご商売と町おこしについて 雑野店主インタビュー

新世界じゃんじゃん横丁でご商売される雑野店主にインタビュー!

ご商売から、町おこし、通天閣の誕生秘話など盛り沢山のため1記事に収まらず全4回のインタビューになりました!

 

1, 新世界でのご商売と町おこしについて

2, 新世界 通天閣の再建秘話 命がけの再建(ご家族から見た再建の思い)

3, 通天閣 エレベーターガール おばあさんから見た通天閣の思い出

4, 雑野さんが感じる新世界の魅力とは

 

本記事では

新世界でのご商売と町おこしについて取材させていただきました!

 

Q お店はどのようなご商売でしょうか?

 

お店は用品雑貨のお店です。

昔は、子供もたくさんいた時は、こども服を取り扱っていたり

紳士肌着や、鞄なども取り扱っています。

 

Q いつから新世界でご商売されていますか?

私は、3代目で祖父の代から商売しているので、戦後すぐに、商売を開始しています。

まだ、新世界に店が全部入っていないような状態からスタートしたとは聞いています。

 

私が、今年58歳の年で、1965年生まれなので、まだ、生まれてないし、道自体もアスファルトになってない時から、雑野商店は、スタートしています。

当時は、戦後なので、着る物も既製品ではなく、今でいう古着のようなものを取り扱うことが多かったようです。

 

Q 雑野さんご自身が、本格的に新世界でご商売を始められたのはいつからですか?

 

2005年ごろだと思います。

40歳くらいの時に、用品雑貨の今の仕事を専業でやるようになりました。

私は、一時期、二足の草鞋(ワラジ)でした。

仕事から帰ってから、店を手伝うような形で、15年くらいやっていました。

二足の草鞋の時は、土日は、商店街で、平日は会社でという形だったのでオフの日はほとんど無いような日が続きました。

 

勤め先は、狙ったわけでは無いのですが、繊維会社に勤めていました。

当時一番有名だったのは、カールルイスの靴の中に使われていたアラミド繊維なども取り扱っていました。

 

僕が24歳、結婚した年に親父が亡くなっています。

その期間というのは、その前年におばあちゃんも亡くなって、私の周りに色々変化があってぎゅっと濃縮した年でした。

 

その後、店一本で専念する形になりました。

当然、父が亡くなった後、地域のいろんな役を引き継いで担当するもありました。

 

ほとんど、親父の同級生や、その前後の人が多かったんですが、

年齢とは、別に20代からいろんな役職を担当することになったので、

役職歴は結構長いです。

 

新世界連合振興町会副会長など、街に直接的に関わるものから浪速地区の保護司や恵美地区の民生委員なども担当しています。



Q じゃんじゃん横丁では、町おこしが沢山ありましたが、そのなかで印象に残っているものは?

 

当時の若手のメンバーで、新世代のメンバーで集まっていたのですが、印象に残っているのは、誓いの鍵や、ジャンナリエですね。

新世代として集まろうという流れで、町おこしに参加するようになりました。

 

Q その時はどのような気持ちでしたか?

昔は、新世界は、人の波がたくさんあって、まっすぐ歩けないくらい時から比べると、

人がどんどん減っていましたので、なんとかしようと思っていました。

 

最初は大きな目標ではなく、若い人でできないかという形でした。

誓いの鍵も、どんどん埋まって行くのを見るとそれだけ反響はあったのかなと思いました。

日々、目に見えて、鍵が増えていくのが分かるので、来てくれてつけてくれているなぁって感じでした。

 

ジャンナリエも派手に見えますが、いきなり初年度からではなく、

一つずつ積み重ねて行ってできたんです。

まずは、写真展をやったり、毎年、少しずつ電飾もバージョンアップしていきました。

3年間くらい続けて、電飾は、冬の12月からバレンタイン前くらいまでは飾り付けは残していました。